普通の主婦だった私が音楽業として定着するのには
10年の歳月が必要でした。

歩き始めた10年を振り返って歩んできた道を
2011年9月から22回の連載ブログとして掲載しました。
何かのお役に立つ事ができましたら幸いです。

仕事と子育て。

2011-09-02

音楽業をやっていて
どうやって子育てをしてきたのか、と
聞かれる事があります。

私は10年ほど前までは
普通に主婦でした。

長女が2歳、次女が1歳の時
隣の部屋でエレクトーンを
教え始めました。

初めは御婆ちゃんに
1週間に1日だけ
2時間ほど見てもらい

徐々に子供だけでお留守番が出来るようになって
生徒も徐々に増やしていきました。

本格的に
音楽業を始めるようになったのは
子供が高校生になってからです。

子育てはとても楽しかったし
家事も好きでした。
手作りで娘たちの服や小物も作りました。
収納グッズも作って
部屋を片付けるもの大好きでした。

今では食事の世話を
主人がしてくれていますが

普通に主婦をしていた頃が
今ではとても懐かしい想い出です。

 

ジャズからラウンジプレイヤーへ。

2011-09-03

子供が高校を卒業する頃
私はジャズピアノを習っていました。

自分の生徒に
ジャズ理論を教えるためです。

アドリブの練習の為に
ベースを友達に手伝ってもらううちに
二人でライブをするようになりました。

でもジャズピアニストになりたいとは
思った事がありませんでした。

その後
真駒内にある「櫻珈琲煎房」や
ろまん亭藻岩店で
自分で司会をしながらのピアノ演奏を行いました。
勿論、仕事への道は自分で作りました。

「ジャズピアニスト」に代わる
ネーミングを考えていたとき
ふと「ラウンジプレイヤー」という言葉が浮かんで来ました。

「ラウンジプレイヤーっていう言葉ある?」
主人にインターネットで調べてもらうと
それは確かに存在していました。

今ではその経験を活かし
「お客様に気を配りながら
会話の邪魔にならない演奏」を目的とした
ラウンジプレイヤーのためのレッスンを
毎月実践付きで行っています。

シャンソンとの出会い。

2011-09-04

ジャズピアノを習っていた頃
私は毎週ほぼ通勤のように
すすきのでセッションに行っていました。

その頃
黒と赤の服しか着れず
私を誰と思ったのか
すすきのので客引きをしている
黒いお兄ちゃんに
「お疲れ様です!!」と
頭を下げられたことがあります。

ジャズピアノを弾きながら
「でも私はジャズではないな・・・」という
どこか違和感の様なものを感じていました。

そうしているうちに
あるお店のカウンターから
「ちょっといらっしゃい」という声が
かかりました。

そのお店で
毎月1回シャンソンのコンサートをしている
堀ひろこさんです。

私はこの堀さんとの出会いによって
シャンソンの魅力を知る事になったのです。

 

シャンソンに向かうきっかけ。

2011-09-05

8年ほど前
あるお店のカウンターに座っている
堀ひろこさんが
「ちょっといらっしゃい」と
私を呼びました。

堀さんはこの頃
まだ少しは
目が見えていました。
視野がだんだんせまくなり
やがては見えなくなってしまうという
難病をお持ちです。

堀さんは私に数曲の楽譜を見せました。
シャンソン?私の知らない曲ばかりです。

5分位でしょうか。
曲のイメージを教えていただきましたが
何とすぐ本番で弾きなさいと。

自分だけの演奏でしたら
失敗しても恥をかくのは自分ですから
いいのでしょうが
プロの歌手に恥をかかせるわけにはいきません。

楽譜で曲の進行をしっかり見ながら
必死な思いで伴奏をしました。

堀さんは御客様に私を紹介し
初見で伴奏した事を讃えて
大きな拍手を頂きました。

これを機会に私は
シャンソンへの道を歩き出す事になります。

 

 

「何か」はわからずに歩き始めた。

2011-09-08 08:

普通の主婦だった私が
どのようにして今この音楽業界にいるように
なったのか。。。
自分をよく振り返ってみようと思います。

40歳を過ぎ
子供が高校生の頃
JAZZピアノを練習し、
友達とライブなどをしながらも

音楽業として何かを始めたいと
思い始めました。
でもその「何か」はよく分かりませんでした。

とにかく外に出れば
「何かがある」と思って
車を走らせていました。

その頃、パジェロミニを
自家用車としていました。
私は主婦の頃
車のシートカバーを全部手作りしていましたので
可愛らしく赤のタータンチェックの生地を使って。

ところが
自分自身が主婦である事に違和感を感じ始め
パジェロミニを運転している自分を顧みて
「私はこの車を運転して仕事をする人間ではない。
黒で4ドアの乗用車に乗りたい!!!!」と
叫びました。

それから半年後くらいでしょうか。
思い通りの車が手に入ったのは。

しかもタダで。

 

初めて味わう孤独。

2011-09-09

自分で音楽業を始めたいと思って
やみくもに動き出すようになりましたが
何をしたいのかが分からない。

セミナーに行くと
同じよう希望に胸を膨らませた人たちが
たくさんいて
私はそこにいるだけで安心していました。

でも振り返ってみると
私には友達がいなくなっていました。
私は主婦の頃、楽しかった友達と
もう話が出来ない人間になっちゃったのだろうか?
もう戻れないのだろうか?

私は精神的に不安定になりました。

今考えると、感を働かせて動くようになって
自分自身をコントロール出来ていないのに
いろんなものを呼び寄せていたのだなあと
思っています。

それから私は
主婦から一転、変わってしまった自分を認め
これが私の人生なんだと
しっかり前を向いて歩く事にしたのです。

OZの誕生。

2011-09-10

私はJAZZのアドリブ練習のため
娘が小学生のときに
ミニバスの団長だったT先生をよんで
ベースを手伝ってもらっていました。

そのうち、練習だけでは上手にならないからと
「SIDE BY SIDE」というユニットでライブを
始めます。

このT先生は
新聞記者を目指していた事もあるので
キャッチーなフレーズを考えるのが得意でした。

そこで、エレクトーン教室から
ポピュラーピアノ教室に変える際に
教室のネーミングを考えてもらったのです。

3つくらい候補があったうち
娘たちも気に入った「OZ」に決めました。

先生に聞くと、小倉の「O」とJAZZの「Z」という事で
「OZ]にしたのだとか。

この後、私がソロで活動すようになると
「OZって魔法使いのOZですか?」と
御客様に度々聴かれるようになり

「OZの魔法使い」をよ~く読んでみると

OZは魔法使いではなく、ただの人間だったのです。
「脳みそのないかかし」や「勇気のないライオン」たちに
おまじないをすることで、希望を叶えてあげたのです。

本当はおまじないをしなくても
自分たちの中に
最初から持っている

これを読んだ時
私の「OZ」としての役割が
「潜在能力を引き出すこと」にあることを
しっかりと理解することができたのでした。

そして私は
「OZという名前をつけてくれて本当にありがとう!」と
T先生にお礼を言いました。
先生は「そんなに良い話があったんだ!返って嬉しいよ」と
言ってくれました。

しかしこれから3年後
OZスタジオが始まった翌年

T先生が突然の交通事故で
亡くなってしまうのです。

 

勘ナビで営業に出る。

2011-09-11

音楽業をやりたいといっても
何をどうしたらよいのか分からない
車は手に入ったので
まずはピアノのある喫茶店に
名刺を持っていきました。

最初は札幌でしたが
次第に足を延ばして江別、小樽、砂川、赤平
そして函館。

主婦の頃は必ず
あらかじめ地図で目的地を調べ
信号何個目で右、などと
メモをして行きました。

それが遠出をするようになって
行った事のない土地に行くのにも
大体の方向がわかれば
約束の時間ピッタリに到着するようになったのです。

迷うこともしばしばでしたが
何度も迷ううちに
頭の中に地図が出来て
詳しくなっていきます。

これを繰り返していると
自分の「勘ナビ」に少しずつ自信がついて

「時間に焦る」という事が
殆ど無くなりました。

そして私は
「飛行機に乗って営業に行きたい!」
と思うようになります。

 

横浜。そして神戸。

2011-09-12

ピアノのあるラウンジを周って
営業活動をしたり
すすきのでセッションをしたり

私は自分に投資をするつもりで
主婦の頃に貯めていた
ヘソクリを資金にしていました。

初めて道外で営業したのは
横浜です。
横浜にも素敵なシャンソニエがあると
知人に教えてていただいて
ライブを観に行き
ピアニストやオーナーと話をして

後にライブをさせていただく事に。
勿論持ち出しですけどね。

最後には神戸。
神戸には結婚して2年ほど住んでいました。
ヤマハでインストラクターをやっていましたので
仲間もいます。

実は私、どこに行くのにでも
宿泊するのはホテルではなく全て「スパ」でした。
お風呂は入り放題ですし、

利用客は皆マナーが良いので
夜も静かですからぐっすり眠れるんです。

朝起きると
隣のオジサンにびっくりされる事がありましたね(笑)

神戸では友人の家に泊まらせていただいて
幾日も止まるのは申し訳ないからと
残りの2日はスパに泊まる事にしました。

いざ行ってみると宿泊は男性のみ。
どうしたものかとカフェに入って考え直し
思い切ってホテルに宿泊することにしました。

今まで、足を棒にして歩いて
本当に自分でもよく頑張ったなと思いました。
「きっと神様が私にご褒美を下さったんだ」と思い
涙の出る思いでロビーに入ったのです。

 

赤と黒。

2011-09-13

自分が変わる事によって
周りも変わっていきます。

9年前
父が急に「家を建て替える」と言いました。
何故か急に家の中にアリが噴き出すようになり
土台から直すのには
莫大な費用がかかるためでした。

翌年私達は近所のアパートに仮住まいをします。

その頃から何となく「赤と黒」の服を
着るようになっていました。
何故だか分からないのですが
気持ちが落ち着くのです。

夏になると
暑苦しい色なので
主婦の頃に来ていた
ブルーのシャツと白のパンツで
家を出ました。

50メートルほど歩くと
何だかとても気持ちが悪くなって
どうにもこうにも
落ち着きません。

私は家に戻って
赤と黒の服に着替えて
出直したのでした。

カラーに詳しい人は
この症状(笑)を
「完全を求めている」と分析しました。

10年目にして
ようやくこの症状から脱皮し
今ではとても明るい
虹のようにカラフル。
またゴールドのように輝く色を
身につけるようになりました。

 

芸術の森にて。

2011-09-14

アパートでの仮住まいの時
歌の作曲やライブの練習のために

芸術の森アートホール内にある
ピアノ練習室を借りて
寝泊まりしていました。

勿論ベッドなどはなく
寝袋を持って行きました。

多分現在は
宿泊出来なくなっていると思いますが
シャワー室もあり
どの部屋も綺麗ですので
とても使い心地が良かったのです。

対外、どこかのバンドも違う部屋で
泊まりがけのレコーディングやらを
していたので寂しくありませんでしたが

たった一人の時は廊下が真っ暗ですし
さすがに怖かったですね。

でも
曲が出来た早朝
山の奥が見渡せるアーケードで
朝日を見ながら

一人ぼんやりと椅子に座って

わたしは
まだ見ぬ
遠い世界を
心の中に見ていたのでした。

 

さくらんぼの木の下で。

2011-09-15

櫻珈琲煎房やろまん亭で
ラウンジの仕事をしていた頃

ろまん亭社長から
ある方を紹介されました。

その方が持つ農園で
毎年、焼き肉パーティがあり
企業の社長さんが沢山参加されているのでした。

主催者から「さくらんぼの木の下で
エレクトーンを弾いてほしい」と頼まれ

実際に行ってみると
小さなキーボード。しかもペダルがありません。
ピアノをお弾きの方はおわかりと思いますが
サスティンペダルなしで弾くのは
かなり厳しいのです。

私はそのキーボードで
40分間のライブをしました。
指を残しながら弾くので
手が吊りそうになります。

リクエストが飛ぶようになり
子どもたちも近づいてきます。
気がつくと1時間にもなり

その中で
ずっと聴いていて下さった社長さんがいました。

私がペダルなしでの弾き方などを説明すると
しきりに感心して
「よく1時間も弾いたね!」とほめて下さいました。
演奏後に楽しくお話をして

しばらくして私は社長さんの会社に
初めて「代理店交渉」のために訪問するのでした。


工場の規模は日本一。
赤平の空知単板工業(株)です。

その後
毎年コンサートをさせてただくようになり
同社主催100キロウォーク大会10周年記念として
テーマソングも作らせていただきました。

テーマソング「辿り着くために」は

8年前の
さくらんぼの木の下から始まったのです。

 

初心忘れるべからず。

2011-09-16

OZスタジオが完成する以前の2003年には
本当にいろいろな事がありました。

私は車が手に入って
「何をしたいのか」わからないままに
ピアノのあるお店を
ひたすら周ってあるいていましたが

同時にお墓参りにもよく
行くようになったんです。

藤野にある叔母のお墓に行くと
何故だか小樽に行きたくなって
私が赤ちゃんの頃に亡くなった
おじいさんのお墓に行きました。

お墓参りの帰り
とても古い木造建ての家を改造した
喫茶店があったので入ってみました。

気のいいマスターと親しくなって
私はそこで初めて
ライブをさせていただいたんです。

ライブが終わった後
大きなお鍋にたくさんのスープを入れて

「食べなさい」と
近所のおばさんが持って来てくださいました。

よく聞くと
ライブの前日に、床やガラス窓を
綺麗に磨いて待っていて下さったんだそうです。

私はこの日の事を決して忘れない
忘れてはいけない、とそう思いました。

以来、私は何か新しい事をする前後に
必ずこの喫茶店を訪ね、報告するのでした。

 

小玉さんとの出会い①

2011-09-17

2003年の秋
ついにスタジオが完成しました。

ウィンドーから
グランドピアノとドラムが見える
サロンのようなスタジオです。

とはいっても
まだまだ営業できる状態ではありません。

今でも看板をあげていないため
中を覗き込む人が沢山います。

そんな中、一人でピアノを弾いていると
知らない人が突然やってきて
「作曲してほしい」と言いました。
(シャンソン歌手の方からの紹介だそうです)

伊達の小玉さんからの依頼
ということで仲介の方が訪ねて来られたのでした。

「生きる」
小玉さんがガンを克服された際に作られた詩です。
私はすぐに曲を付けました。

完成して
依頼者である小玉さんにとても会いたかったのですが
どういうわけか会う事が出来ません。

それから半年くらい経ったでしょうか

私が横浜でライブをした日
会場に大きな花束が届きました。
小玉さんからでした。
代理で届けて下さった方から
小玉さんの連絡先を聞き
帰宅後すぐに電話をしました。

そして次の日、私は伊達へと車を走らせます。

なんと

小玉さんも私の連絡先を知らされていなかったのでした。

小玉さんとの出会い②

2011-09-18

小玉さんにお会いして
様々な困難を乗り越えてこられた
力強さと
お客様への心配りやおもてなしの心を
感じました。

話しているうちに
どうして直接会う事ができなかったかが
分かりました。

私が頂くはずの作曲料の殆どを
仲介の人が奪ってしまったのです。

居所は分かりますし
責めることは出来たのですが

私達は無理に追う事はせず

二人の出会いを
御金に変えることが出来ないと
喜んだのでした。

ここから4年後
小玉さんが紹介して下さった方を経て
「ありがとうのうた」が
ソニーミュージックから
発売されることとなるのです。

 

道が開く時。

2011-09-19

2004年、
私はオリジナル曲を何とか形にしたくて
東京の知り合いを訪ねたり
音楽関係の方を紹介して頂いたりしていました。

航空チケットを取り寄せたその日
伊達の小玉さんから電話が来ました。

小玉さんが目にした名刺。
小玉さんも会ったことがない人なのに
この人に会ったら何か良い事あるんじゃない?と言います。

東京についてすぐに
名刺の方を含め、お二人にお会いしました。
私は自分の今までの歩みをお話しました。
「あなたのピアノを是非聴かせてほしい」

実は私は少し前から
知り合いのマンションを借りていましたから
そこには都合よくグランドピアノがあったのです。

三人でマンションに移動し
そこで私はオリジナル「命の限り」を演奏。
涙を流して感動して下さったのでした。

これがまた偶然
その方の友人が音楽プロデューサーでした。
翌日、私が弾き語りをした「ありがとうのうた」の音源を聴いていただくと
「いいね。いけるんじゃない」

ここから話はトントン拍子です。

東京は決まると早いとは聞いていましたが
さすが眠らない街ですね。

あっという間にカラオケが出来
プロデューサーが歌手の松本大地.君を紹介してくださって
すぐにレコーディングでした。

曲と歌手が見事にマッチされて
イメージピッタリの「ありがとうのうた」が完成したのです。

4ヶ月後にソニーミュージックから発売。
更に韓国語バージョン(ソ・ウォノ)は
ビクターエンターテイメントから発売されたのでした。

驚くような偶然が
幾重にも重なって
障害なく
その道が大きく開かれる時って
現実にあるものなんだなと
痛感した経験でした。

私と大地君は小玉さんに会いに行き
いきさつを説明して

心から感謝したのでした。

音楽教室オープン。

2011-09-20

2004年。スタジオが出来たものの
私一人で使うのは
何か勿体ないような気がしていました。

「そうだ。講師を呼びましょう」

楽器店に相談すると
派遣のためのマージンがかかり
月謝を相当高くしなければなりません。

そこで私はJAZZライブに足を運び
ギターリストの中沢さんやピアノの板谷さんに
声をかけました。

札幌では有名なプレイヤーでしたので
私はダメもとの気持ちでしたが
とても快く引き受けてくださったのです。

板谷さんがバンドのリハーサルで
OZスタジオを使って下さった時
サックスの蛇池さんとドラムの黒田さんにお会いしました。

後日、ベースの豊田さんを黒田さんから
紹介していただきました。

こうして講師5名が揃い
OZスタジオ音楽教室がスタートしたのです。

現在、講師は私を含め11名となりましたが
私は講師を心から愛しています。
全員、心優しくまた仕事に厳しく
謙虚で自分を誇りません。

一人ひとりを紹介したい所ですが
それはまたいつかの機会にと思います。

本当に素晴らしいプロフェッショナルな
アーティストであり、またOZ講師の皆さん。

益々の活躍を期待しています。
そして、いつも有難うございます!!

人との繋がりから学ぶ。

2011-09-21
音楽の仕事をしていると
音楽関係の方々との出会いも多くなります。

ユーストリームというインターネットでの
番組配信を行っていますが
元を辿ると9年前にインターネットラジオの
番組を持つところから始まります。

その頃はまだ自宅ではなく
ラジオ局から配信していました。

その当時デレクターだった
「メルダー」と3年前に再会し
曲のアレンジをお願いしています。

日本ハムファイターズがリーグ優勝した2006年。
監督だったヒルマンさんを迎えての「江別alive」で
舞台監督をさせていただきましたが

屈斜路湖JAZZフェスティバルの
総合プロデューサーである川村さんから
伝授して頂いたお陰です。

オリジナル曲をライブで披露するinfinityでは
結成して間もなく
広島での原爆60年ホワイトプロジェクトに参加。
「命の尊さ」を学ばせていただきました。

「ASAYAN」というTV番組に出演し
当時、小室哲哉さん最後のプロデュースと言われた歌手の小林幸恵さん。

OZスタジオ講師陣と共に
2009年には大阪ビルボードでコンサートを
させていただきました。
幸恵さんの親友「たむけんさん」が
素晴らしい機会を与えて下さったのです。
そこで「たむけん」さんの
弟子を育てる深い愛を知りました。

まだまだ
数えきれない方々からの紹介によって
その都度アドバイスを頂いて
全ての事に関して
学ばせていただきました。

これからも
この学びは
生きている限り続く事でしょう。

 

 

オンリーワン。

2011-09-22

私は元来、人と比べられるのが
好きではなかったので
自分の価値を見出す為に
オリジナルに重点を置いてきました。

ラウンジ演奏では

普通に演奏するのではなく
楽譜を見ない事によって
御客様への気配りを。

特に、耳を傾けて下さる方に
笑顔の眼で挨拶をします。

勿論従業員の方々にも
同じように配慮します。

私はこのような
臨機応変な演奏スタイルを身につけ
生徒にも実践的に伝授しています。

また歌の作曲では
「コミカルシャンソン」という
今まで日本ではあまり知られないジャンルに
取り組んでいます。
歌詞がとても重要ですが
コミュニティFMでパーソナリティをやっていた頃の
同僚である溝手さんと共に
2作目を製作中です。

聖書の言葉を一字一句変えずに
メロディーをつけ
2008年から今月で既に45作目となりました。

自由な歌詞であっても、曲を自由にしすぎると
聴く人の印象に残らず、親しまれにくいものに
なってしまいます。

新商品を研究するのと同じように
新しいジャンルで歌を作り

広く知って頂く。

オンリーワンには

長い時間と労力が
必要なのですね。

 

しかし社会の現状は。

2011-09-23

皆さんもご承知の通り
音楽業界は今、変動の時期。
CDの売り上げが落ち
音楽事務所は人員削減など
今までの業界常識が
通用しない時代となっています。

特に北海道では
プロとして音楽で自立する事がとても難しい。
不景気になると
先に削られるのが音楽です。
収入が安定することはありません。

私も主婦の頃に貯めたヘソクリが
もう何年も前に底がつきました。
でもその元を取る事さえ
不可能なくらい厳しいのです。

そのような世の中でも
自分の好きな「音楽」で自立して
頑張っている人が沢山います。

音楽を磨き、人間を磨き
そうして切磋琢磨しながら生きている人を
私はこれからも
応援していきたいと思っています。

これがスタジオ「OZ」の役割だと信じて。

 

 

夫は内へ、私は外へ。

2011-09-24

私が自分の車を得てからというものの
時間に構わずその日の気分で
「今日は函館までいっちゃおう」と
突然出かけてしまいます。

こんなことをして
よくダンナさんが許してくれるわね~
と疑問に思う方もいらっしゃるかと思います。

普通、主婦でしたら
夕飯の支度までには帰らなくてはなりません。
実際、私も子供が高校生になるまではそうしていました。

2003年、仮住まいの頃。
主人が私にこう言いました。

「5年間は許す」と。

5年間何も花が咲かなかったら
家に戻るようにとの事でした。

今、8年が経ちます。

今から2年ほど前からでしょうか。
主人は食事の支度をしてくれるようになりました。

私から頼んだ事は1度もありません。

食事の世話など無縁だった主人が
パソコンで作り方を調べながら
毎日美味しいご飯を作ってくれるのです。

テレビで料理番組をよく観るようになりましたし
食材などの買い物もしてくれます。

主人が家を守ってくれているおかげで
私は安心して出かけられる・・・・

これがホントの
「鬼は~そと。福は~うち」ですね。

 

 

 

感謝の最終回。

2011-09-25

私は40歳を過ぎる頃から
徐々に人生の転機が始まりました。

今年で10年目という事で
一つの節目として
全22回の連載ブログを
書いてきました。

今まで生きて来た51年間も、
非公開ですが昔を思い出しながら記録しました。

私は今まで前だけを見て歩いてきましたから
過去を振り返る必要があったのだと思います。

そしてこの連載中に
「OZスタジオ」の今後の姿が思い浮かびました。
それは「OZ」の役割を担う仲間が広がる姿。
共に支え合う姿です。

次の10年がきたら
私はまた、生きた10年を振り返るでしょう。

それまで
しっかりを前を向いて
1歩ずつ歩いていきます。

この連載をご覧頂いた読者の皆さん。
コメントをお寄せいただ方々。
これまで私を支え続けてくれた仲間達。
そして家族全員に
心から感謝します。
いつも本当にありがとうございます。

そしてこれからも

よろしくお願いいたします!!!!